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ちむどんどん|ハワイの豚の話とは?7人のハワイアンウチナンチュの画像

2022/08/18
 
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大好きな北海道の東端っこ 道東に住んでいます。 北海道に関するできごとや道東のお店 または好きなことまで書いています!

2022年6月13日、NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」にて。

養豚場の経営者・猪野寛大(中原丈雄)は「ハワイの豚の話、知ってるか」と声を掛けました。

何の話か分からないというような表情を浮かべる賢秀。

寛大は「そのうちな」とだけ言って去って行きます。

「ハワイの豚の話」とは何でしょう。

この「ハワイの豚の話」は本当にあったことなんです。

写真が残っております。

ハワイに渡った日本人に、私たちは戦後とてもお世話になっていたんですね~~~。

ハワイの人々は、これを取り立てて、自慢することがなかったために、あまり日の当たらない出来事として日々が流れてしまったようです。

ですが、近年ミュージカルになってるんですね♪

少し詳しくご紹介します。

ちむどんどん「海からの豚」の前にあった衣服やミシンの支援

はじめに、戦後の沖縄のひどい窮状を助けるために動いたのは比嘉トーマス太郎でした。

比嘉太郎 (1916-1985)

 

ホノルルで沖縄系移民の両親のもとに生まれました。

ご両親は日本の教育を受けさせたく、沖縄に残っていた祖父母の元に太郎を送ったそうです。

太平洋戦争の始まる前年の1940年にハワイに戻りました。

沖縄が戦場になると知り、太郎は通訳兵として志願。

比嘉は英語、日本語、沖縄語を話すことができた。

米軍が投降を呼びかけても、かたくなに壕をでようとしない人々の心にはヤマトの言葉も英語も届きませんでした。

沖縄での惨状は聞きます。

想像すると、悲しく涙がでますよね。

 

沖縄語で

「ワンネー、ヤマグスクヌタルーヤイビーン。ンジティクミソーリヨー (私は中城村の比嘉太郎です。信じて出てきてください) 」

と投降を呼び掛け続け、多くの命を救ったそうです。

彼の「しまくとぅば (島言葉) 」が人々の命を救ったんです。

こんなことがあったなんて。

知りませんでした。

 

戦後、比嘉太郎はハワイに戻りました。

終戦後の一か月後、1945年9月16日にホノルルで開催された約40人の沖縄のビジネスマンの会議に出席し、沖縄の窮状を説明。

ビジネスマンたちは全会一致で沖縄の窮状を助けるために努力することに同意したそうです。

 

最初は洋服の援助をいただきました。

👆

これは、どういうことかわかりますか??

洋服を着てない,着れない人々がたくさんいたということだと思います。

服を着てない裸の子供たちの写真が載っておりました。

●1946年2月5日、151トンの衣類(1,769箱)が沖縄に出荷されました。

●その後、衣類、靴、本、学用品、ミシン、油灯籠、自転車なども1949年まで送られました。

●1948年には1万ドル相当の医薬品を沖縄に出荷

 

このころは、信じられないかもしれませんが、アメリカから日本人はひどい人種差別をされていました。

日系人や日本人移民に対する強制収容所への収監政策ですね。

1942年から終戦後の1949年に亘って実施されていました。

1942年3月の世論調査によると、アメリカ人のなんと93%が、米国政府は西海岸に住む日系人を抑留するのが正しいと信じていました。

 

ハワイのビジネスマンたちは、差別が無いことが前提の宗教団体に協力を要請しました。

日本人を助ける、ということは本国アメリカに背くことになったんでしょう。

そして救援物資の輸送に、ここでも、比嘉太郎は動きます。

海軍に輸送支援を要請しました。

ちむどんどん「海からの豚」を詳しく

 

豚肉は沖縄の食生活の定番ですよね。—そしてそれは今もそうです—。

戦前の記録によると、沖縄の島々にはおよそ10万頭の豚がいました。

ところが、琉球政府の1946年の記録によると、終戦までにその数は7,731頭にまで減少した。

そして、1947年までに、豚コレラの流行により、沖縄の豚の個体数はもっと減少してしまいました。

 

◇1947年、連合沖縄支援協会が結成されました。

彼らは550頭の豚を購入するために47,196ドル!!を集めました。

 

◇ダグラス・マッカーサー将軍が豚を沖縄に輸送することを承認。

 

◇獣医の山城義夫博士はネブラスカ州オマハの畜産市場に行き、寄付金を元に550頭の豚を手作業で選びました。

豚はチェスター・ホワイトという品種でした。

実際の船上の豚さんの画像👇

 

チェスターホワイトをカラーで

チェスター・ホワイト

 

◇1948年8月、山城博士は、

アゲナ・リシン

宮里平所

中間牛吉

島袋真義

渡名喜源美

上江洲康夫

とともに、豚とUSSオーウェンの乗組員と共にポートランドから沖縄に向けて出航しました。

これが

550頭の豚を故郷に輸送した7人の勇敢なハワイアンウチナンチュ

と言われる人たちです。

前列左から沖縄出身ハワイアンの7人

中間牛吉、山城義夫、宮里正平、渡名喜源美、上津康夫(右下)

後列左から中嶺真輔、金城善輔(秘書)、島袋真栄、良仁アゲナ(1948年)。

 

◇1948年9月27日正午、与勝半島の米海軍施設、ホワイトビーチに米海軍ジョン・ オーウェンが上陸しました。

船内には、オレゴン州ポートランドからの困難な6,000マイルの横断を生き延びた、536頭の豚の貴重な貨物がありました。

 

◇521頭の豚が沖縄中にどのように分布していたかが詳細に記載されているそうです。

 

◇入念に管理された流通・繁殖プログラムにより、豚の数が増え、沖縄の養豚業が活性化されました。

食糧不足を解消し、戦後の復興に貢献しました~~~~~。

素晴らしい~~~。

戦後に、こんなにも日本がハワイに住む日系人からお世話になっていたとは、知りませんでした。

ハワイは、日本人は大好きですよね💛

ホント、素敵な島なんだな~~~と、改めて思いましたよ。

アロハスピリッツ

ALOHAという言葉を一文字ずつ分けると、次のような意味があります。

A「Akahai(アカハイ)」-親切、思いやり
L「Lokahi(ロカヒ)」-統一、調和
O「Oluolu(オルオル)」-同意、礼儀
H「Ha’aha’a(ハアハア)」-謙遜、素直
A「Ahonui(アホヌイ)」―忍耐、粘り強さ

そして、沖縄。

沖縄も私たちが自慢の癒される大きな素敵な島ですよね~💛

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大好きな北海道の東端っこ 道東に住んでいます。 北海道に関するできごとや道東のお店 または好きなことまで書いています!

Comment

  1. 辺土名 朝史 より:

    初めまして、沖縄県民です。
    トーマス比嘉太郎を取り上げて頂きありがとうございます
    比嘉太郎は母の叔父にあたる人で、中々沖縄救済での情報を取り上げる事が少なく、
    こちらのサイトを母に見せました。母もちむどんどんを毎朝見ており、ちむどんどん(NHK)から感じ取ってくれる人もいるんだね~っと喜んでいました。
    内容について良く調べて記事にして下さり、感謝です!!

    • OWL より:

      優しい素敵なコメントをありがとうございました。
      出かけていまして、空港で読ませていただき、涙ぐみました。
      今は、帰宅してパソコンを使えています。
      この記事は書いていて、さらっと書きましたが、沖縄言葉に涙しましたよ。
      あと、沖縄の方々の苦労です。
      朝史さん、ありがとうございました。
      いちどだけ、5年ほど前でしょうか。
      沖縄に行ったことがあります。また、訪ねたいと思っております。
      本当にコメントをありがとうございました。

  2. OWL より:

    朝史さん、コメントを再読させていただきました。
    ビックリしました。
    出先だったので、きちんと読めてなかったんですね。
    トーマスさんのご親族の方だったんですね。
    返信が遅くなりすみませんでした。
    そうなんですか。
    立てこもる沖縄の方々を、島言葉が助けたなんて、ほんとうに悲しく胸が痛む話です。
    そのあとも、トーマスさんは服を送るようにお願いしたり、そして豚さんをも送るようにしたヒーローですよね。
    そうなんですか。あまり取り上げられてないとは驚きました。
    映画やドラマになってもよいお話しです。

  3. OWL2 より:

    朝史さん、コメントを再読させていただきました。
    ビックリしました。
    出先だったので、きちんと読めてなかったんですね。
    トーマスさんのご親族の方だったんですね。
    返信が遅くなりすみませんでした。
    そうなんですか。
    立てこもる沖縄の方々を、島言葉が助けたなんて、ほんとうに悲しく胸が痛む話です。
    そのあとも、トーマスさんは服を送るようにお願いしたり、そして豚さんをも送るようにしたヒーローですよね。
    そうなんですか。あまり取り上げられてないとは驚きました。
    映画やドラマになってもよいお話しです。

  4. 辺土名 朝史 より:

     owlさん忙しい中、コメントありがとうございます。
    今回、10月30日(日)に世界のウチナーンチュ大会が開催され、比嘉太郎の息子さん達が
    来沖しニュースなどで久々に取り上げてくれました。

    (※ここ最近では、Bs放送(ドキュメント映画)や各地で小規模なイベント、新聞のコラムなどはありましたがマイナー過ぎるのか県民にもあまり周知できていないのが現状だと自分は感じています)

    今後、生前の比嘉太郎に関する活動記録が沢山あって未知数な状況ですが、
    owlさんの様に感じてくれる(琉球語:チムグクル)方々が増えてくれるのを期待したいと思います。

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